HK
1 month 2 weeks ago
茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部第(てい)を発した。 」驥䖟(きばう)日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。 「一発東都幾日程。 まったく条約改正のことは、欧米諸国のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎(うと)かった過去の失策のあとを承(う)けて、この国の前途に横たわる最大の難関であるとは、上下をあげてそれを感じないものもない。 そして武士よりも武士らしくなって戻ってきなさい」と告げると共に「百姓の子と見下す奴らは存分に見返してやりなさい」と上洛を後押しした。 まだ昭和天皇が亡くなる前だから、あんまりおおっぴらにできないけど、竹下と小渕と俺の三人だけで相談して、あの先生に元号を作ってくれ、とこっそり頼みに行ったことがある」と証言している。
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