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1 month 2 weeks ago
且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲(けみ)することを得て、此間の消息を明にした。
わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。
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